(大野市指定史跡)夏休みは朝倉義景墓を訪れて…福井市一乗谷遺跡とのつながり
#01人の育成
夏休みの自由研究テーマや家族旅行先に朝倉義景や朝倉氏遺跡を。福井市と大野市の歴史的なつながりも感じられますよ。
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◼️大野市指定史跡・朝倉義景墓
◼️アクセス
中部縦貫自動車道大野ICから「名水と城下町」方面へ10分。近くに名水百選・御清水や天空の城越前大野城、城下町の飲食店や旅館なども立地しています。福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館までは国道158号利用して30分です。
https://maps.app.goo.gl/F8KBHdy8eckHWJJ17?g_st=ic
朝倉義景と大野市
朝倉義景は、一乗谷に本拠地を置く戦国大名である。幼名は長夜叉丸。天文十七年(一五四八)に父の朝倉孝景が急死し、十六歳で家督を継承した。元服後は孫次郎延景と称し、天文二十一年(一五五二)に室町幕府将軍 足利義輝の「義」の一字を賜り、義景と改めている。
義景は、織田長に対抗するため近江への出兵を繰り返し、天正元年(一五七三)の戦いに大敗すると、一乗谷に撤退し、最終的に大野郡の六坊賢松寺に逃れた。しかし、織田軍に通じた大野郡司である従兄弟の朝倉景鏡の襲撃に合い自害した。
六坊賢松寺は既に廃寺となっている。場所は定かではないが、今の曹源寺(大野市明倫町)あたりにあったのではないかとの説もある。
江戸時代特有の形をしている五輪塔(義景墓)は、寛政十二年(一八〇〇)、旧家臣の子孫によって曹源寺境内に建立され、文政五年(一八二二)に現在地に移設されたものである。
五輪塔の後方には、義景の近臣、鳥居景近と高橋景倍の墓がある。さらにその後方に、義景の母高徳院、同夫人の祥順院、次男愛王丸を合祀した墓が、明治四十四年(一九一一)に旧家臣の子孫によって建立された。
また、文政九年(一八二六)に建立された一乗後主廟碑、旧家臣瀧池家の墓、明治三十四年(一九〇一)に荒廃していた墓所を有志らが募金し、修理した時の石塔がある。
◼️岐阜県郡上市とつなぐ国道158号の県境で発生した土砂災害の迂回路が今週7月18日午後2時に開通します。